「自主的にやれ」という矛盾

アクティブラーニングという言葉には少し食傷気味になっている面もありますが、その原因の一つに自主性を強制するという矛盾した場面が見られることが挙げられます。

つまり、「自主的にやれ」という命令自体が自主的でないという話です。

指示や命令という「手を出す」アクションは自主性を育てるのに向いていません。やるべきことは指示ではなく、受容して「見守る」アクションです。見守るということは、声に出して指示するのとは違って形には表れない、非常に内面的なアクションになります。

たとえば仕事でも同じで、部下にどんなに細かく指示を出したとしてもこちらの望むような結果を返してくれない時があります。それでも他人がやる仕事である以上、ある程度の誤差の幅を認めておかなければなりません。

誤差を認められない上司は「自分がやった方が早い」となって、結局チームワークができず、仕事の成果を増やせないということになります。

自主性を育てるには見守ることと誤差を許容することが重要なのではないでしょうか。