なぜ天気予報は外れるか

事実関係をしっかりチェックする姿勢をもちましょうというお話をしていきたいと思います。
天気予報が全然当たらないことに腹を立てている人がいますが、なぜ天気予報は外れるかというお話からしてみたいと思います。

なぜ天気予報が外れるかというと、天気予報は実際の天気と無関係だからということです。
当たり前のように聞こえるかもしれませんが、天気予報は実際の空の状態とは直接関係がないということです。
もっというと天気予報で何を言おうと実際の空の天気には影響を及ぼさないということです。

天気予報でテレビで今日は雨が降ると言っていても、それを言ったことによって天気が変わるということはあり得ないわけです。
天気予報と実際の空の関係は直結していないことがポイントです。
この関係を認識することが非常に大切だと思っています。

では逆に影響を及ぼす例は何かというと、天気の例でいうと空を見て雲があるかどうかをチェックすることです。

雲があれば雨が降る可能性があり、逆に雨が降ってる時は雲が空にある可能性がかなり高いです。
雲から雨が降ってくるわけなので雲と雨は直接の関係になっています。
事実関係が直結していることです。

こういう根本的に直結してるのは何かを見極めるのが非常に大切になっていきます。
これができないといろんなデメリットがあります。

日常的なま個人的なことで例えばスマホを充電したつもりだったんだけれども実は全然充電されてなかったことがよくあります。
スマホをチェックしてみて本体が壊れたんじゃないかとか端子が壊れたんじゃないかを疑うのですが 、 実際はコンセント自体が抜けていた、みたいなそういう失敗を私はよくしています。

このように直接の原因になっていることを見極めることがが非常に大切だと思っています。
それができないとどんどん他人に責任を押し付ける思考のクセがついていきます。

例えば勉強の方法が悪いのにテキストが悪いとか学校が悪いとか塾が悪いみたいな形で他の人に責任をなすり付けるようなクセがついてしまうのが良くないです。
他には青森は田舎だからダメだというように、自分の行動を変えるのではなく外に原因を求めてどんどん悪い方のループに入っていきます。

それを避けるためには普段から直接関係あることはなんなのかっていうのを見極めていく練習が重要です。

ということで、結論としては何かと何か本当に関係しているもの影響を及ぼしているものをしっかり見極めていきましょうというお話でした。
今日は事実関係についての話をしてみましたどう考えたでしょうか。
ぜひ一緒に考えてみてください。

全員をえこひいきする

今日は全員をえこひいきするという話です。
どういうことかというと、人との接し方においてすべての人を特別扱いするという気持ちで接するということです。

一人だけえこひいきするとちょっと問題が起きます。
周りから不公平だというような声が上がるということがよくあることですよね。
それに対してみんなに同じ対応するというのがあります。

ただここで考えなければいけないのは、同じ対応することが本当の解決策になっているかということです。
不公平だと不満をいう人はその不公平な構造が嫌なわけではなくて、自分も認めてもらいたいのに認めてもらえないという不満を持っている可能性が大きいです。

その不満に思っている気持ちを満足させてあげることが本当に必要な事だと思っています。
理想としては不満を言う人もきっちり認めてあげるということだと思います。
考え方としては、人間はそれぞれ違うので、それぞれの人に違う対応をしていくことを目指していくといいんじゃないかと思っています。

ですからみんな同じ対応するのではなくて、それぞれ違ってもいいんじゃないかと考えています。
これはあくまでも理想論なのかもしれませんが、目指すべき目標や理想としてはこういう目標を持っててもいいんじゃないかなと思っています。

関わり方としては全員をえこひいきするんだというような理想を持っていたいと思います。

その対応の例としては、例えば口数が少ない人がいたとします。
そういう人に対して公平にしたいからといってたくさん話しかけるということはその相手にするとちょっとうるさいなと思われてるかもしれません。
人によってどれぐらい話したいかとかどういう関係になりたいかというのはバラバラなので、無口な人はあんまり話しかけないでほしいと思っているかもしれません。

そういう時に無理やり会話の量を増やすことが、本当に解決になるのかということです。
そうではなくて無口な人はそのペースに合わせた関わり方をしていくき、いっぱいしゃべりたい人にはいっぱい話しかけていくというような形で、別の対応をしてもよいのです。

教育に関連していうと、学校の公立の教員は地方公務員でいらっしゃいますけれど、地方公務員の心構えとして全体の奉仕者というものがあります。
曖昧な表現ではありますけれども何となく雰囲気としては、みんなに同じ対応すればいいというような考えでとらえられてるようなものがあるかなと思っています。

これは先ほど言ったように、みんな同じに対応するのが本当に全体にとって良いことなのかという疑問に関連します。
個別にバラバラの対応していくということが本当の解決策ではないかと思っています。

感情としてもそれぞれ違った対応してもらった方がうれしいものです。
ですからそういう意味でも本当に全体のことを思うのであれば、全員をえこひいきするという対応の方がいいんじゃないかなと考えています。

ということで今日は全員をえこひいきするというお話でした。この考え方についてどう思うか、ぜひ考えてみてください。

楽しく生きることは楽じゃない

今日のお話は楽しく生きるこれを目標にしようという話です。
少し硬い言葉で言うと、幸福度を上げるということになります。
ただ幸福度という言葉は口に出しづらい言葉でもあるので、もうちょっと平たい言葉で「楽しく生きる」と言ったほうが親しみやすいんじゃないかと思っています。

幸福に生きるというのは我々が生きていく上での最終目的です。
そういう意味で楽しく生きるというのはかなり重要な人生の目標だと思っています。

経済的な豊かさでは人間の幸福というのは測れず、それとは別に人間としての豊かさがあるんだというような流れが世界的にもあります。

そして楽しく生きるというのは非常に難しいことです。
なぜ難しいかというと、我々の中にも心の中にも楽しくやることへの恐怖みたいなものがあるからです。
楽しくやってはいけないんじゃないか、という恐怖があります。

それはどこから来るのかと考えると、楽しいイコール怠けているみたいな発想があるからです。
そういう理由もあって楽しく生きるというシンプルな目標は実は難しいものです。

別の意味での難しさは、楽しさが人によって違うとういことも挙げられます。
例えば大学に合格するとか収入を増やすといった明確なことであれば分かりやすいんですが、どうやったら楽しいかというのは主観的なもので、なかなか定義することが難しいものです。
明確な基準がないからこそ、楽しく生きることは難しいということも言えます。

そして周りを見てみても、楽しく生きられている人はあまり多くないようです。
むしろほとんどいないんじゃないかと思うぐらいにこの目標は難しいのです。

ではどういう方法で楽しく生きていけばいいのかという話になりますが、いろんな工夫をしていく必要があります。
例えば根本的なことでいうと睡眠や食事であったりフィジカルの面での工夫も必要です。

休息を取るテクニックも非常に重要で、休息を取るからやる気が出て楽しく活動できるものですので、睡眠とか休息も非常に重要なことだと思います。

それに加えて、精神面でいうとものの見方が非常に重要です。
これが楽しく生きるられるかに大きく関連してくると思います。
認知が歪んでいると世界がすべてつまらなく見えます。
その見方を変えていくことで、同じものを見ても楽しく感じられるたりそうでなかったりします。

ですからものの見方や自分の心と向き合うことが大切だと思っています。 その他に楽しく生きるのを邪魔しているものは例えば完璧主義などの思考のクセとか認知の歪みです。
こういうものをなくしていくというのも楽しく生きるための工夫のひとつだと思っています。

ということで、今日のお話は楽しく生きるということは一生の目標であって全力を注ぐべきだというお話でした。
ぜひ楽しく生きる、ということについて考えてみてください。

完璧主義とマルバツ思考

今日は完璧主義についてお話ししたいと思います。
完璧主義っていうのものがどこからやってくるのかということを考えてみたいと思います。

いま完璧主義のせいで悩んでる人ってのは結構いるように感じます。完璧主義に蝕まれているなという感覚です。

例えば高すぎる理想に悩む人であったり、自分はこうでなければならないみたいな形で自分で自分を苦しめるん人がたくさんいると思います。
そういう人はまず一歩踏み出してみるとか、とりあえずやってみるみたいなことができず、前に進めなくなり、負のループに入っていきます。

そういう形で悩んでいる人がたくさんいるように見えます。
この完璧主義どこからやってくるのかなというのを考えた時に、マルかバツかで考えるようなマルバツ思考の形を変えたものなのかなという風に考えました。

完璧かダメかという二つしかないマルバツで考えるから完璧主義が自分の心を蝕んでいくんじゃないかということをふと考えました。
なぜマルバツという極端な二つでしか考えられなくなるかと考えると、その原因は心の中に何か人間として満たされないものがあることが原因だと思っています。

自分が認められていないという感覚ですね。
認められていないと、自分を保つために敵を作るという行動につながります。
人間は二つにグループ分けして、こっちは自分の味方、こっちは敵というグループに二分して、自分は正しい相手は間違っているという形で自分の心を保とうとします。

こちらは全て正しく、相手は全部間違ってることにして相手をやっつけるという目標を立ててなんとか精神を保っていくということです。
人間はこのような行動パターンを取ることがあります。
正しいか間違ってるかの二つでしか考えられないことが、完璧か全然ダメかという二つに分かれてしまうのではないかと考えています。

ではこのマルバツ思考をどうやって克服したり解決していったらいいかという話ですが、それに関しては自分が承認されるような場所を作っていくとか精神的な辛さを解決していくことが解決策になります。

もっと平たく言うと楽しく生きるとこういうことだと思っています。
自分の存在が認められて自分が楽しく生きるということができると、わざと敵を作ってどうこうするという必要はなくなってきます。
ですのでまず自分の心を安定させることを一番初めにやるべきだと思っています。

今日は完璧主義について少し考えてみました。完璧主義について考えてみてはいかがでしょうか。

孤独は糸の少なさ

今日は孤独についての話をしてみたいと思います。
孤独に関して大切なことは、つながりの糸の本数を増やしていくということだと考えています。

いまわたしたちが生きている世の中では、全く一人で孤立無援の状態ということはあまりなく、周りに他の人がいるけれども孤独を感じるのが現代の孤独だと考えています。

他人から承認される関係の少なさが孤独感につながってると思っています。
無人島に一人でいる孤独ではなくて、周りに人がいるけれどもとのつながりの糸の本数が少ないから孤独を感じることが多いと思います。

例えば学校とか職場の人間関係でもそうですけれども、孤独を感じるのは周りに人がいて会話はしているんだけれども何か自分が承認されている気がしない、こういうようなことがあると思います。
もっと言うと素の自分が出せない状態では孤独を感じることが多いと思います。
これが我々が普段感じている孤独というものだと思います。

これを発展させると自立と依存という話にも繋がっていきます。
依存というのは承認される人との繋がりが本数が少なくて太い状態だといえます。
例えば話をしたり情報を得る相手が一人しかいないみたいな状態は依存状態といえると思います。

逆に自立するということはどういうことかというと、依存先が多いということだと考えています。孤立無援で独り立ちするのを自立と呼ぶのではなく、依存する先がたくさんというのが自立している状態だと思います。

仕事の話だったらこの人、くだらない馬鹿話をしないならこの人に話せばいいみたいな形で、いろんな方向に依存先が伸びていることを自立と呼ぶのだと思っています。
何でも自分だけで抱え込むことを自立とは呼びません。

ということで、まとめると人間関係を作っていく時に自分を認めてくれる承認してくれるような関係のつながりの糸を増やしていくということが重要だと考えています。
ただむやみに交友関係を増やしていくのではなく、自分を承認してくれる関係の糸の本数を増やしていくという風に考えることが重要だと思っています。

根負けしてくれるまで話す

今日は強制することは絶対悪ではないという話をしたいと思います。

相手に強制したり管理したりすることよりも相手に選択させる自己決定させる方がいいと一般的には言われています。
そうだとしても100%全てを自己決定に任せることができないというような状況もあります。

どうしてもこれは強制してやって欲しいなと思うようなこともあります。
そういう時は相手が納得してくれなくても、やる価値があるんだよという強い思いがあるようなことはどうしても強制したいという風な気持ちになることがあります。

例えば、学生に対してお金についての知識をつけてもらいたいというようなことがあります。
経済感覚のようなものです。
どうしても中学生、高校生というのは自分が働いて得たお金の価値がいまいちピンとこないということがあるからです。
あんまりピンとこないことでも、将来きっと役に立つお金の知識を、強制してでも知識をつけてもらいたいなというような類のことがたまにあります。

ではどうやって強制していったらいいのかというと、もちろん圧力だけで強制していくというやり方ではうまくいきません。
そういう場合は、完全に相手を納得させられなくても渋々受け入れてくれるぐらいの十分な対話をするべきだと考えています。

完全に自己決定でなくても「この先生がこれだけ言うんだったらまあしょうがないからやってみるか」ぐらいのレベルには持っていく必要があると考えています。

そのためには、何か懲罰を与えたり報酬を与えたりいうことするのではなくて、こちらのを持っているビジョンとかこうなってほしいという思いをたくさん伝えて、根負けしてもらうぐらいの対話が必要だと思っています。

その時は渋々納得して強制されてやったことが、もしかすると時間が経つにつれあれはこういう意味だったんだ、という形で理解してくれるかもしれません。
もちろん理解してくれないかもしれません。

いずれにしても、これはやる価値があるから強制的にやってもらいたいという、その思いは強く伝えていかなければいけないなと思っています。

ということで、強制は絶対に悪というわけではないけれども、強制させるにしても信頼関係が必要だとという話でした。

教育は見える化をやりすぎた

今日の話は、教育の世界において見える化がちょっと行き過ぎてしまったんじゃないかというお話です。
そして見えないものも再評価していこうということです。

見える化をやりすぎたというこの問題点は何かというと、見えないものは価値が無いぐらいまでの感覚に陥ってしまう点にあります。

教育における見える化とは何のことかというと、例えばペーパーテストで数字にして表したり、成績を数値化というようなことです。
これらはどれも正解があるという前提で評価方法として生まれたものです。

それ自体は悪いものではないのですが、いまある正解の見えない世界とフィットしているかという点で疑問が残ります。
目に見えるものだけが全てだで他の事は無駄なのだという雰囲気にまでなっている現状が見られるのでそこが少し問題かなと思っています。

例えば、「これを理解しましたか」と生徒が聞かれた時に実際は理解してるかどうかは別として、とりあえず形としては「理解しました」という風に答えておけばそれでいいか、となるのが良くないと考えています。
他にもペーパーテストの答えさえ出せばいいのだ、という雰囲気もあまり良くない傾向だと思います。

そこで提案したいのは、見えない部分にもしっかりフォーカスをあてて評価していくということです。
見える化されていなくても、頭の中や心の中にある大切なことというのがあるはずです。
学びの中で、心の中に生まれる感覚とか感覚という大切なものがあるはずです。

見える化できずに漏れてしまっていることをきっちり再評価ことが必要だと思っています。

例えば、生徒が学びを楽しんでいるかどうかということです。
何か新しいことを学んで面白いと思うかどうか、これは教育においてはかなり重要なことだと思いますが、これはペーパーテストでどうしても評価することが難しいことです。
このようなことを上手く拾って行けるようにしたらいいのではないかと思っています。

もう一つの例としては、今よく言われているように多様性を受け入れるということも同じです。
多様性を受ける受け入れる姿勢は非常に大切なことです。
ただしこれほど大切なことであっても、見える化できるかとなるとこれはまた別問題で、多様性を受け入れるこれはなかなか見える化できないわけです。

ちゃんとやってますかと聞くとやっていますみたいな、そういう形の評価では本当に大切なことが見落とされているのではないかと思います。

ではどういう風に評価していったらいいのかという話ですが、一つの例としては自己評価というものを取り入れていくことが有効だと考えています。
他人から評価してもらうのではなく、自分で自分を評価するというこの練習をしていく必要があると思っています。

それと同時に、指導する大人の側も生徒が自立して自己評価できるような形でファシリテートしていく練習をする必要があると思います。
指導者の方が答えを与えるという仕組みから抜け出して、学習者が自分で課題を設定してそれに対して自分で評価をしていくというようなサイクルを作っていくのが非常に重要だと考えています。

ということで、今日は見える化はちょっと教育においては行き過ぎてしまっているんじゃないかということ、そしてこれから大切なことはしっかり見ることが非常に大事だというお話でした。