教育は見える化をやりすぎた

今日の話は、教育の世界において見える化がちょっと行き過ぎてしまったんじゃないかというお話です。
そして見えないものも再評価していこうということです。

見える化をやりすぎたというこの問題点は何かというと、見えないものは価値が無いぐらいまでの感覚に陥ってしまう点にあります。

教育における見える化とは何のことかというと、例えばペーパーテストで数字にして表したり、成績を数値化というようなことです。
これらはどれも正解があるという前提で評価方法として生まれたものです。

それ自体は悪いものではないのですが、いまある正解の見えない世界とフィットしているかという点で疑問が残ります。
目に見えるものだけが全てだで他の事は無駄なのだという雰囲気にまでなっている現状が見られるのでそこが少し問題かなと思っています。

例えば、「これを理解しましたか」と生徒が聞かれた時に実際は理解してるかどうかは別として、とりあえず形としては「理解しました」という風に答えておけばそれでいいか、となるのが良くないと考えています。
他にもペーパーテストの答えさえ出せばいいのだ、という雰囲気もあまり良くない傾向だと思います。

そこで提案したいのは、見えない部分にもしっかりフォーカスをあてて評価していくということです。
見える化されていなくても、頭の中や心の中にある大切なことというのがあるはずです。
学びの中で、心の中に生まれる感覚とか感覚という大切なものがあるはずです。

見える化できずに漏れてしまっていることをきっちり再評価ことが必要だと思っています。

例えば、生徒が学びを楽しんでいるかどうかということです。
何か新しいことを学んで面白いと思うかどうか、これは教育においてはかなり重要なことだと思いますが、これはペーパーテストでどうしても評価することが難しいことです。
このようなことを上手く拾って行けるようにしたらいいのではないかと思っています。

もう一つの例としては、今よく言われているように多様性を受け入れるということも同じです。
多様性を受ける受け入れる姿勢は非常に大切なことです。
ただしこれほど大切なことであっても、見える化できるかとなるとこれはまた別問題で、多様性を受け入れるこれはなかなか見える化できないわけです。

ちゃんとやってますかと聞くとやっていますみたいな、そういう形の評価では本当に大切なことが見落とされているのではないかと思います。

ではどういう風に評価していったらいいのかという話ですが、一つの例としては自己評価というものを取り入れていくことが有効だと考えています。
他人から評価してもらうのではなく、自分で自分を評価するというこの練習をしていく必要があると思っています。

それと同時に、指導する大人の側も生徒が自立して自己評価できるような形でファシリテートしていく練習をする必要があると思います。
指導者の方が答えを与えるという仕組みから抜け出して、学習者が自分で課題を設定してそれに対して自分で評価をしていくというようなサイクルを作っていくのが非常に重要だと考えています。

ということで、今日は見える化はちょっと教育においては行き過ぎてしまっているんじゃないかということ、そしてこれから大切なことはしっかり見ることが非常に大事だというお話でした。