通さない

「勉強を通して」とか「スポーツを通して」などという表現をよく使いますが、では勉強やスポーツ本体は目的ではないのでしょうか。

どこまでがこじつけなのか

「〇〇を通して」という表現が悪いわけではないのですが、このフレーズを使うとどんなこともこじつけできてしまうので、私自身も気をつけようと思いました。

たとえば、数学を通して忍耐力をつける、というフレーズがあったとします。でも忍耐力をつけるためだったら、わざわざ数学である必要があるのか、という疑問が残ります。

むしろスポーツで汗を流してストレス発散した方が、忍耐力もついていいのではないか、ということも言えます。

必然性があるか

別のものではなく、まさにそれでなくてはならない必然性が求められるのです。

たとえば数学を通して、課題を解決する方法を学ぶとしましょう。数学でなければならない理由は、数学的な定義があるからこそ一つの決まった答えを出すことができるということや、現実世界に存在しない数学の抽象的な世界でなければ表現できないことがあるからです。

このような理由によって、「数学を通して」学ぶこともあるし、「数学自体を学ぶこと」で得られるものもあるということを明確にしなければならないと思います。

そういったことを、生徒にも保護者にも伝えやすく翻訳していくのが、学校や塾の先生の非常に重要な役割だと考えています。