感動ではなく尊敬という言葉を使ってはどうか

夏には高校野球24時間テレビを見た人が「感動をありがとう」というような言葉を並べます。

そこで湧いていくる一つの疑問は、なぜ尊敬ではなく感動という言葉を選ぶのかという点です。テレビの視聴者より高校球児や障害者の方が努力しているはずなのに、なぜ尊敬ではなく感動という表現が出てくるのか、違和感を覚えるところです。

人それぞれの努力の量を比べることはできませんが、単純に時間で比較できると仮定して、小さい頃から野球一筋でほとんどの人生を野球に注ぎ込んできた人が甲子園で一生懸命やるのはいわば当然です。

高校球児と自分と比較して、ふがいない自分を反省するというのであれば共感できますが、一生懸命やっている姿に感動するというのは的外れな発言ではないでしょうか。

全く悪意が無いというのもよくわかるのですが、暗に「自分より劣っている人間にしてはがんばっている」という、弱者を見下す視点がごくわずかに含まれているように感じられます。

見下すといっても、奴隷のように扱おうなどと考えているのではなく、いわゆる「かわいそう」という感覚の、悪気のない見下し方です。

高校生も一人の人間ですし、障害者も一人の人間として、テレビの視聴者と同じ立場にあります。区別せず、一人の個人として敬意を示すという方が自然な人間関係ではないでしょうか。