プライバシーへの大きな代償

ヒトの歴史から見るとプライベートやプライバシーというものは非常に歴史の浅い、新しい概念です。

ぼく自身も一人の時間が欲しいと感じることが多いですが、その一方で大きな代償を払わなければなりません。自分や相手のプライバシーとどのように付き合っていけばよいのでしょうか。

プライバシーが、「他人から干渉されたくないこと」だとするならば、干渉されたくない気持ちはどこから生まれるのでしょうか。

なぜ干渉されたくないかと考えると、それはつまり他人から攻撃されたくないという感覚からくるのだと思います。近すぎる関係はちょっと居心地が悪いということですね。

もっと広い視野でとらえるならば、他者との人間関係をうまくやっていくというのが本来の目的なのではないかと思います。

何でもかんでも他人を遠ざけたいというのとは少し違うような気がします。

プライバシーを獲得するには経済的にも他の精神的な面でも大変大きなコストを背負うことになります。たとえば個室や厳重な本人確認など、身近な生活でもプライバシーのためにコストがかかっていることがわかります。

その大きな負担をした上で、他人と離れるという事がまた新たな孤独や虚無感を生むことになります。人はそこで誰かとつながるためにまた新たなものを作り出します。SNSやソーシャル〇〇という形で他人と良い関係でつながることができるツールが出現しました。

自分と他人の間に壁を作り、干渉しないでほしいと1人の時間を作ったものの、それでは孤独に耐えきれず逆に誰かとつながっていたいと言う欲求が生まれてきたのではないでしょうか。

「干渉しないでほしい」というのと「誰かとつながりたい」という相反する2つの欲求が入り混じってしまうとのが今の現状のように見えます。

もしそうであるならばプライバシーを確保してから、逆に人のつながりを持ちたいという二段階のステップを踏むよりも、そもそもある程度プライバシーというものをゆるやかな形にした方が良いのではないかと思っています。

そういった背景も含めてコミュニティーそれ自体がビジネスになったり、ソーシャルのつながりが重要であるといわれるようになっているかなと思っています。