信頼できないから契約書が生まれる

懲罰思想というのはどこからやってくるのか、という疑問を以前から感じていましたが、一種の契約という視点で考えると納得できる部分も多いかもしれません。

そもそも契約書がいらないような社会は天国なのである。契約書は人を疑い、人間を悪人と規定するところから生まれてくる。

三島由紀夫『信義について』

お互いを信頼していないからこと細かに約束をして、もし破ったらこの損害を賠償するという契約を結ばなければならないのです。

これがビジネス的な契約だったらいいのかもしれませんが、教育の現場で大人が子どもと関わるときにこの契約という考えに基づいた懲罰をしているのだとしたら、それは大人が子どもを信頼していないということなのではないでしょうか。

大人が子どもを信頼できないのであれば教育において深刻な問題であり、つながりの希薄さを示しています。それを突き詰めると大人が自分自身を信頼できないことに由来するような気がします。

約束を守らないと決めつければ当然相手も信頼してくれません。そして契約の抜け道を探すことに力を注ぎます。たとえば宿題を強制すればするほど、いかに巧妙に答えを写すかの工夫をするの同じです。

まず大人の側が無条件で信頼して選択を任せることから教育がはじまるのではないでしょうか。