何でもお金で買える、は純真さの表れ

学生の時にも悩みがありますが、社会人になればなったで新しい悩みを持つことになります。 特に社会人2年目3年目とか半ばぐらいで悩むことがあります。 何かというと、自分が何のために働いているのか、このまま働き続けていいのかという悩みです。

自分の力でお金を稼いで生活しているわけですが、お金だけではどこか満たされないものを感じることがあります。 自分の人生の方向性はこれでいいのかというような悩みがまた生まれてくるのです。

学生時代、高校とか大学の若い時は、お金があれば色んな事の解決できるという前提を持っています。 これは経済的自由という風に言うこともありますが、経済的な自由を求めて一生懸命頑張っていくわけです。

お金があれば生活も出来ますし、色々なことができるようになると信じて、就職活動を頑張ったり大学の勉強を頑張ったりします。 大きなモチベーションになっているのです。

同時に、「人の役に立つ」とか「人のために何かをする」というのは非常に綺麗ごとのように聞こえるものです。 学生時代はそれに反抗する考えとしてやっぱりお金が全てだ、という発想に至ります。

しかし、社会人になって働き始めるとやっぱりこれはちょっと違うな気づきます。 お金をもらっても何か物足りない、満たされない気持ちになります。

そこでようやく気付くのですが若い時に考えていた、お金があれば何でもできるみたいな発想は、あまりにもピュアな発想だったということに気付くのです。 お金さえあれば何でも解決できて自分の心が満たされるというのは、あまりにもピュアすぎる発想だということです。

働き始めて社会人に2年目、3年目でそういう思いに至る時期だと思います。

何ができるのかということが新しい悩みとして生まれます。今まできれいごとだと思っていた、「人のために活動する」とかがまた生まれてきたりします。

卒業した塾生の話を聞いても感じるのですが、20代の悩みというのは仕事の内容についてのこともあるとしても、自分の生きてる意味は何なんだろうかというのも大きな関心事になっているようです。

お金は何でも買えると考えるのは、ある意味ではピュアな気持ちを持っていることの表れである、というお話でした。

理想よりも現実

大半の悩みというのは理想の高さが原因になって起こることが多いです。 例えば何で自分はこんなに能力が低いが低いのだろうかという風に悩んだり落ち込んだりすることがあります。 1日にやるべきタスクがたくさんあるのにそれを終わらせきれないみたいなことで落ち込むということがよくあります。

理想が高くて現実とのギャップがあるという風に悩む時に、対応が二つあると思います。

一つはその理想に近づくために努力をするということです。 努力するとかいろんな自己投資をしてなんとか理想の姿に近づくようにしていくというのが一つあると思います。

もう一つは今の自分の現実が理想と離れている理由を探すという対応です。 これは自分が劣っている理由を見つけるということで、例えば自分を傷つけたり自分を責めるということがこれにあたります。

自分を責めて傷つけることによって、現実がうまくいかない理由づけをしてなんとか自分を納得させるということです。 注意しなければいけないのは、中毒性があるということです。

自分を責めて自分を低めるということは中毒性があります。 そして気を付けなければいけないのは、努力するよりも自分を傷つけた方が楽だということです。

自分を責めてしまう傷つけるというような形になってしまう原因というのは、実は理想が高すぎるということではなくて、今の自分の現実がしっかり受け止められていないということが多いように見えます。

例えば、自分ほど素晴らしい人間だったらこれぐらいできて当たり前だ、みたいな固定観念のようなものが自分の中で埋め尽くされていると良くない状況になっていくように思います。 自分はこれぐらいできるはずだという仮定が過大評価だったりすると、そこで現実とのギャップが生まれて心が苦しくなるということになっていきます。

これはいわゆる現実を受け入れられていないということです。 自分の能力はこれぐらいだという現実を受け入れられていないということになります。

大切なのは今ある自分の現実をしっかり受け入れるということです。 ありのままの自分はありのままで受け入れるということです。 決して自分が思うように思うような素晴らしい能力を持っていなくても、ありのままでいいじゃないかという風に捉えることです。自分を受け入れるということです。

そのようにして自分の見える現実にギャップがなく過不足なく受け入れることができれば、そこを基準にしてまた高い理想を設定することもできます。

現実が低いままなのにその上にさらに高い理想を立てるというのは、心が苦しくなってしまう原因になるので注意した方が良いのではないかと思っています。

そういうわけで大切なのは高い理想を持つということよりも今の自分の現実を素直に受け入れるということだと考えています。

負けても大丈夫な人になる

教育に競争が必要かいうことが話題に上ることがあります。教育において競争というものをどうとらえたらいいかを考えていきたいと思います。

競争があったとして、もし負けたとしても立ち直れる人になるということが重要なのではないかと考えています。もちろん競争して勝ちにいきたいという人はそれでいいと思います。

ただ競争の弊害として競争することによって、何かを嫌いになってしまったり無気力になったりしてしまうのは良くないと思っています。例えばかけっこで競争することによって、もう運動するのが嫌だとコンプレックスになってしまって、その先の人生で運動を遠ざけるようになってしまうのは大きな損失です。

ただ、競走に関して違和感を覚えるのは「みんな優勝」とか「みんな一位」という方式には少し違和感を覚えています。みんな優勝みたいなスタイルは、競争を否定しているようで実は肯定しているからです。

どういうことかと言うとみんな優勝ということは、競争に勝つことはとても大きな価値があるんだと言っているのと同じ意味になります。ですから競争を否定しているようで実は競争の一種であるという風だと言えます。

競争というものにおいて重要なことは、勝てばもちろん一番いいでしょうけれども、負けた時にそれを認められるということだと思っています。負けたとしてもそれを嫌いになったり無気力にならないような姿勢が大切だと思っています。

これは競争を肯定したり否定するのではなくてそのまま受け入れるということでもあります。どういう風にして受け入れるかというと、人生においてはいろんな軸があってその軸の一つで勝ち負けがついたとしてもそこまで気にする必要ないと捉えることです。

例えばスポーツという基準で勝ち負けをつけた時に、自分が負けてしまったとしても何か別の軸があるという風に考えることが大切です。それは例えばスポーツがダメでも勉強があるみたいな形で、他に自分なりの軸があるのでまぁ大丈夫だろうという風に思えることが重要だと思っています。

そしてその価値の基準や自分の軸を増やしていくということが重要だと思っています。ですから競争はあるんだけれども、それはそれとして、他にも自分なりの基準が色々あるのでまぁ大丈夫だろう、というふうに精神的に落ち着かせられるというのが大切だと考えています。

このようにして教育における競争を考えた時に、もちろん勝つことが全てではなく、負けても大丈夫だろうというしなやかな姿勢を保つということが大切なのではないかと思います。そして負けても大丈夫だと思えるような人を育てることが教育の役目なのではないかと考えています。

5分で話す練習

毎日ブログを書いていて、最初に書き始めた時には原稿用紙1枚分400字を毎日書くというふうに決めました。これは特に何か考えがあって400字というふうに決めたわけではなくてなんとなくそれぐらいの量であれば毎日続けられそうかなーということを考えて決めました。

実際に2年ぐらい続けているうちに、ちょっと分量が多くなりすぎてしまうなという風に感じることが多くなりました。これは文章の量が多くなってしまうというのもそうなのですが、頭で考えてることがごちゃごちゃになって考える量が増えすぎているなというのを感じていました。

ではどれくらいの分量がちょうどいいのかということをちょっと調べてみると、一つの基準として話して5分間、書いて1500字くらいがちょうどいい分量だということがわかりました。文章を書くといっても今は音声入力でやっているので実際は話していると言った方が適切かもしれません。

5分間で話すということのメリットは、ひとつのトピックだけをシンプルにまとめられるということです。どうしても5分以上の制限時間だと話が脱線して脇道にそれてしまいがちです。補足の説明なんかを量を多くしてしまうのです。そういう意味でも5分間というのはちょうど適切な時間かなと考えています。

具体的にはどういう方法でやるかというと、喋ることにしても書く事にしても、あまり細かい台本は作らない方法が良いと考えています。これは台本棒読みのスピーチが伝わらないとのと同じで、台本を作るとそこに縛られて本当に言いたいことが言えない、あるいはうまく伝わらないということがあるからです。

ざっくりとした内容決めたら台本を書かずに無意識で言葉が出るのを待つぐらいの感覚でいいのだと思っています。そこで工夫するポイントというのは、アウトラインを明確に作るということです。

アウトライン、大体の話の要点や目次のようなものをわかりやすいアウトラインを作ることが重要だと考えています。話したい内容、どうしてもこれだけは言っておきたいと思う事柄をアウトラインとして羅列しておくのもいいと思います。

そのようにして大体のポイントをあらかじめ用意しておくと、話が進めやすくなります。アウトラインができればあとは本番スタートして、ただ言葉が出るのを待てばおおむねなんとかなるものだと思っています。

これらのことも含め、これからは話して5分間、文字に起こすと1500字というこれを一つの基準にしていきたいと思います。調べてみると大体のスピーチとかスタートアップのピッチングなんかも5分間で収まっていますし、ビジネス書なども大体原稿用紙3、4枚ぐらいの分量が一つの塊として使われていることが多いなと感じています。

このような形で進めていきたいと思います。今何分経ったでしょうか。4分30秒ぐらいです。少し余裕があるかなという感じですので、これくらい終わるのも良いのかもしれません。

YouTubeをCGM化する

YouTube のユーザーは今もまだ増え続けているようです。ユーザーが増えるにつれ、動画の内容や、発信方法も少し変化してきているなと感じています。

具体的には、動画本体の情報を受け取るだけではなく、コメントで楽しむというような状況が増えているのではないかと感じています。

これはかつてウェブ検索の世界でも同じような事が起こっていました。例えばレストランを探す時を考えると、昔はただお店の住所とか電話番号が載っているそれだけで満足できました。しかしだんだん普及していくにつれて、単なる情報だけではなく、実際行った人がどう感じたのか、という口コミサイトというのが増えてきました。

単純な情報だけでは満足できなくなって、もっとリアルな情報が欲しくなってくるということです。そうなると情報量も増えてくるので、そのサイトのサイトを運営している人だけの力ではコンテンツを作りきれなくなります。そこでユーザーがコンテンツを作ってくる、たとえば口コミを投稿してくれるというような仕組みが必要になってきます。

これはウェブ検索の例ですが同じような事が YouTubeでも起こってきています。ですからこれから YouTubeの動画を投稿するときは、コメントが発生しやすいような仕組みや、動画の内容もコメントが発生しやすい内容にしていく必要があると考えています。

動画を撮るというのは自分が一方的に何か表現することに偏りがちにですが、そうではなくどうやって場を盛り上げてCGM化できるかを意識していくと良いと思っています。

強い主張をしたい時

自分の中で強いメッセージ性や伝えたい想いが溢れてくる時があります。こういう時に過激な表現とか強い表現をするのは相手に伝えるためには逆効果になってしまうことがあります。

そうではなく共感を呼ぶような表現をしていくのが効果的です。どういうことかというと、「〇〇です」という言い切りの形をするのではなく、「私は〇〇だと気付いた」といったような表現をする、ということです。

例えば「これから多様性の時代です」という表現をすると、そんなことは言われなくてもわかっているとか、自分が時代遅れと言われているようだと感じて共感を得られにくいのです。

そうではなく、具体的に「こういうことがあるから多様性の時代なんだと私は気づいた」という表現をしていけば良いです。このような表現であれば、自分も薄々感づいていた、というような共感を元に相手に伝えることができます。

ですから強い主張をしたい時ほど強い言葉を避けて、共感を呼ぶような表現をすることが必要だと考えています。

休息は生活に必要な空白

意識的に休息をとることの必要性を強く感じています。空いた時間を意識せずに放っておくと、穴を埋めるように何かタスクを詰め込んでしまうからです。

そうではなく、意識して「空白」というスケジュールを設定するということが必要だと思っています。脳が何もインプットされない状態を作ることで、エネルギーを充電して次の仕事の活力になっていくからです。

休息を取るためには何時間も予定を開ける必要はなく、数分単位の短い休息も効果的です。スマートウォッチやスマホに呼吸アプリなど入っているのでそういったものを活用していくと良いと思っています。

休息をうまく取れた時には、休息の重要性をしみじみと実感するのですが、少し時間が経つと日々の忙しさに負けてついスキップしてしまいがちです。スケジュール帳に入れたりリマインダーを使って意識的に思い出していくことが必要なのではないかと考えています。